作品紹介
首も手もないトルソの美しさは近代の発見と言えよう。昔は「美に対する観念」というより、むしろ藝術品を求める注文品が「完全姿熊」を要求した。しかし、発掘された古代作品が、首や腕がない時、より本質の「美」を示していることへの感覚的知恵を近代人に与えた。-作者-
日本の彫刻で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。 その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの詩、「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」という原語で自らを彫り続けていた。-作者-
真の彫刻とは、心ある者が立ちどまってひとりで見るとき、語りかけてくるものである。装飾や建築に従属していた大昔から、彫刻の本質はそうであったのである-作者-
ロダンが「フランスのカテドラル」の中で、ランスの寺を「跪いて祈る女」と云っているのは、勿論君は知っている。僕がはじめてランスの寺で受けた感動は、後年ギリシアのシシリアで受けたものと同質である。春の小雨の降る日、細い道に入って右にまがった。不意に眼の前に、雲の流れる濡れた空の下に、膝を折り、合掌し天を仰いで若い女が祈っていた。ランスのカテドラルが………-作者-
真の「空間」とは「自然」の中に「自我」が生むものなのだ。高い藝術作品がこれを示している。-作者-
一つの姿熊、一つのトルソ。これは多様の外界から「選ばれた」形である。構造はここではじめて存在理由を持つ。そしてたとえば、私は一生無限に「トルソ」を作り続けるだろう。-作者-
彫刻が真の「彫刻」でありうるのは、あらゆる藝術作品に共通する一つの普遍性、形而(メタフィジック)上なものが「形」を通して内奥からにじみ出ている「存在」であることだけである。-作者-
それから次々と部屋のコレクションを見てまわった。セザンヌの三十号の風景、これは驚くべき傑作だ。僕はうなった。シニャックもうなっている。-作者-
トルソがそれだけで完全作品になるためには、よほどの力量、というより作者の内面的充実がいる。単純に見えるから、そこに無量のものを満たすのが難しいのである。古代作品にはこれがあった。-作者-
私がいる家のすぐ後ろの丘の上のサン・ミシェル寺の鐘がなる。夕べの祈りの鐘である。ここの山狭の高みにあるアヌンシアータ修道院の神父が私に言ったことがある。「私は40年この山から一歩も下に降りないで、毎日海の潮を見ていました……」-作者-
高橋元吉は私の一生の友だった。
生き方も歩き方も二人はずいぶんちがっていた。しかし、自我の内部が命令するもの、精神の秩序、この点で二人は全く一つであった。-作者-
「主よ、日は傾き夕暮が追ってきましたから。どうか私たちと共にいてください……」「ルカ伝」の中の、イエスが復活して弟子たちのところに現れ、食事を共にした折の弟子たちの言葉である。
姿熊や構造に過剰な「説明」がなく、ただ「黙って在る」ことがそれに接する者に「無限に語りかけ」てくる。これが美術の本質だ。言いかえると首も手も足も出ないただ「人間の中心なる胴体」だけで「美」を示せる作家が本当の彫刻家だ。-作者-
ただ親密な中で、歩み辿ってきた私達の精神の姿を語り合いたい。形に触れ得るよろこび、どのような話にも、常に私達の魂が形而上のひろやかさにつながっているある歓びを得たい。-作者-
部屋の窓際に大きな老眼鏡をかけたやせこけた白衣の小人が達磨のように坐って、糸車を紡いでいる。こちらの壁際に私は坐る。黙礼して一言もかわさない。寂かな部屋の中にじんじんとして伝わってくるものがある。なんにもいわないで、こんなに人間の存在を強く感じることはない。-作者-
パラスはギリシャ神話のアテネ女神の別名で、ホメロスの物語ではいつも「パラス・アテネ」と呼ばれている。-作者-